尿意、そして乱れる心。
「今から尿検査を行います。」
その時私の頭の中はひどく錯綜していた。そして、瞬きをする間にそれらは1つにまとまり、私に辛い現実をつきつけた。
「ついさっき、トイレ済ませてしまった…」
この日は会社の健康診断がある日であった。時間がきたので業務に一区切りをつけ健康診断へと向かった。
業務時間中、私はすでにトイレを我慢していた。最初はめんどくさいからという理由で我慢していたが後半になってくると尿意をねじ伏せようという一種の闘争心が芽生えていた。
そして健康診断を迎える直前に、私は心が折れるまで押さえつけてやった尿意とかいう無礼者を解放してやった。そして私は晴れやかな気持ちで健康診断に臨んだ。
「まずはじめに、尿検査を行います」
ん?
「このカップに入れて持ってきてください」
え?
「少しで大丈夫ですので」
おれはすぐに尿意さんに電話した。もしもし尿意さん。こちらの不手際ですが、すぐにこちらまで戻ってきてくれませんか?降車駅を間違えました。もう一駅先でした。交通費は支給します。戻ってきてください。
そんな声は届くはずもない。
「すいません、今さっきしちゃったんで、出ません」
「え?」
「いや、あの、出ません」
「ほんの少しで大丈夫です。出してください」
「とにかく、でません」
「…尿検査は最後にして、他の検査を先にお願いします」
人間は肝心なところで尿が出ないと、言いようもない焦燥感に駆られるということがこの時分かった。他の検査の合間にはとにかく水を飲んだ。もし仮に3年間ヤクルトしか飲めない修行を終え、ついに水を飲む日が来た時、私はこの日のことを思い出すのだろう。ナルトの世界ならチャクラを溜めているという言い訳ができるのだろうが、ここは辛く厳しい現実世界。食堂のおばちゃんからの視線は真冬の海より冷たかった。
もちろん、水を飲んだ後は僅かな希望を胸にトイレへ赴き、構えた。
飲んでは構え、飲んでは構え。私は本当に何かしらの修行をしているのではないかと錯覚した。修行は絶えぬ模索の業。意味もなく腹を押した。お尻に力を入れてみた。痛いだけだし、屁が出るだけ。この放屁は試合終了の笛である。そう感じた私は全てが始まった、あの受付へと還御していた。
「でません」
か細く拠り所のない声は、誰が聞いても私の疲弊しきった心を視認できるだろう。
「ほんの少しでいいんです、でませんか?」
でない。
「もう一度頑張ってみてください」
頑張るって何を
「水をたくさん飲んでみてはどうですか」
ポツポツと降る冷たい雨は私の心に嫌な寒気を感じさせた。そして私はこの長雨に心を乱していることに気がつく。
もう全部やったよ。何度も何度も、何度も繰り返した。未来を変えようというその一心で。だけど現実は違う。アトラクタフィールドの収束により、どうやっても尿が出ない世界線に帰結してしまう。今の私になら安西先生も諦めなければなどとは言わないだろう。私は呟いた。
「もう、でません」
か弱すぎるその一言はタンポポのように静かに溶けて消えた。